海外駐在員の夫に帯同する妻は、その立場を指して「駐妻(ちゅうづま)」としばしば呼ばれる。私がベトナムで暮らしていた頃、会社員の友人女性が「駐妻になって優雅な暮らしがしたい」と冗談交じりで話していたことがあった。そんなイメージが少なからず存在する世間の駐妻像に対して、異を唱える人物がいる。飯沼さんだ。
「実際にいい暮らしを送る人が多いとは思います。でも、日本で仕事をしてきた女性にとっては、夫の会社の都合で海外生活を送ることになり、就労を制限される場合もある。それはキャリアの中断につながり、経済的にも夫に依存する状態になり、自己肯定感が下がってしまう。これは妻だけでなく家庭の問題にも発展します。」
自身も駐妻として、キャリアの中断を経験。その後に培ったコーチング(※)で誰の力になれるかと考えたときに思い浮かべた存在が駐妻だった。いまは駐妻caféの発起人・運営責任者として、世界50カ国以上の駐妻たちに現地情報やオンラインでの交流の機会を提供している。(本記事では、「駐在員の夫に帯同する妻」について表記を「駐妻」で統一します。)
※ここでは、自発的行動を促進するコミュニケーションを指す。個人向けにあるほか、企業や組織の多くで、人材開発、リーダー育成、組織開発のための手法として導入されている。
世界の駐妻コミュニティ「駐妻café」とは
水嶋: 駐妻caféを拝見しましたが、記事もたくさんあっておもしろくて。私は女性でもないし未婚なので立場はずいぶん違うけど、海外在住経験者として共感する話ばかりでした。
飯沼: ありがとうございます!駐妻caféにはサイトの編集長がいるのですが、元々企業で社内報の編集長の経験がある方なんですよ。ほかにも50名近くのメンバーがいて、様々な専門スキルや経験を持った方々が、ボランティアで運営に携わってくれています。
水嶋: なにっ!一大コミュニティじゃないですか…私も仲間ほしい…。じゃなくて、今日は、そんな駐妻caféの活動内容、また立ち上げたいきさつや飯沼さんご自身についていろいろと教えてもらいたいと思います。
飯沼: はい。まず、駐妻caféは駐妻向けの情報交流サイトで、私が運営する事業「グローバルライフデザイン」のオウンドメディアという位置づけです。その事業では何をしているかというと、これから駐妻という立場になる方に知識や心構えを身に付けていただく「渡航前オリエンテーション」を開催したり、現在海外にいる方々とのオンラインワークショップ、また、個人向けのコーチングも行っています。
水嶋: 渡航前オリエンテーションで伝える知識や心構え…って、どんなものですか?
飯沼: オリエンテーションでは、まず「ケーススタディー」を通して、駐在妻生活の中で起こりがちな問題とその対処法について学んでいただきます。主な内容は、情報収集の仕方、キャリアについての考え方、子どもの学校のこと、カルチャーショックやホームシックなどのメンタル面、人付き合いなどで、テキストでは先輩駐在妻からのアドバイスも多数掲載しています。また、グループワークを通して「本帰国までのわくわくロードマップ」というオリジナルの滞在計画を作っていくことで、「自分ができること」の選択肢を増やしていきます。オンラインで開催するオリエンテーションでは、海外から現役駐在妻の方に参加してもらい、生の声もお届けしています。
水嶋: なるほど。渡航前に準備という点では、駐妻に限らず海外移住者全般に通じる話かもしれないですね。戻る前提であれば、キャリアも含めて帰国後をイメージしておくことは大切でしょうし。それにしても一体、どんなきっかけではじめられたのですか?
飯沼: 当初は個人向けにコーチングを行っていたのですが、中にははじめから海外生活に疲弊して落ち込んでいる方もいて、カウンセラーを紹介するケースもあったんです。そこで「渡航前に準備をする必要があるのでは」と考えたことがきっかけです。
水嶋: そうか、行ってしまったあとでは会いづらいし、サポートするにしてもその状態から持ち上げていくって大変ですもんね。ところでもうひとつのオンラインワークショップ、これってそれこそ世界各地に駐妻はいる訳で、世界規模の参加になりそうですよね。
飯沼: そうですね。メルマガも運営していますが、世界50カ国1000人くらいの方が購読してくれています。
水嶋: うーん、すごい。
世界50カ国、1000人以上の駐妻(元駐妻含む)の方々とのコミュニティを運営する飯沼さん。その活動の原体験は、ご自身の3回に渡る駐妻生活にありました。
海外生活の充実は、仕事含め、「社会における役割」がカギ。
飯沼: 私も過去、三カ所で駐妻生活を送っているんです。結婚してすぐ、2002年に北京で半年。2008年に上海で2年、子どもが三歳の頃です。そして2010年にシンガポールで3年。上海では在住日本人が利用する日本語図書館というマンションの一室を利用した施設があり、ボランティアで受付や子どもへの読み聞かせをしていました。後半は運営スタッフとして会報を作成する担当になったり、ブログの運営も始めましたね。
水嶋: ブログ。メルマガなど、後のグローバルライフデザインの活動にもつながってきますね。
飯沼: 確かにそうですね。そしてシンガポールでは日本人会を拠点に活動する子育てサークルに入っていました。現地には日本人会館という四階建のビルがあり、ホールやファミレス、図書館、各種習い事ができる教室まで入っています。法人会員という制度もあり、夫(家族)の会社が入会していれば入れます。
水嶋: す、すごいですね!四階建ですか。
飯沼: そうなんです、すごいんですよ。
水嶋: ところで飯沼さんは、日本語図書館にしろ子育てサークルにしろ、活動的ですよね。お話を聞いていると、ご自身が理想とする駐妻生活を体現してきたのだなーと感じます。
飯沼: 渡航前オリエンテーションでも必ず話すことなんですが、海外生活では「居場所と役割を持つこと」が一番大事です。引っ越し直後は慌ただしいですが、それが過ぎ去ったあとに、夫には会社があり、子どもには学校があり、私には?となるんです。孤独になる。就労できるといいですが、夫の会社の規則で制限される場合はボランティアでもいいと思います。「ありがとう」という言葉をもらえる場所に身を置いて、生活に意義を見出すことが必要です。
水嶋: そうか、そうか…。日本の生活を離れることは多くの人にとって、それまでのつながりを(物理的に)断つということですもんね。望んで行くなら割り切れるけど…いままで考えもしなかった。
飯沼: 実際にあった知人の話ですが、「(海外生活には)もう飽きたし、YouTubeでお笑い動画ばかり見てる」という人がいて。でも、親の姿勢によって子どもの海外への見方ってぜんぜん変わってくるんですよね。子どもへの影響を考えても、内にこもってしまうのはもったいないな、と思っていました。
水嶋: 旅行は人の本性が出る、なんて言いますが、想定外のときにどう動くかという話なら海外生活にも同じことが言えそうですね。でもそれは捉え方によっては、最高の環境とも言える。プラスもマイナスも親次第。とくにいまの子どもたちが大人になる頃は、現在とは比較にならないほど多文化社会になっているでしょうし。
海外生活で積極的に社会と関わり、役割を見出し、そして果たしてきた飯沼さん。しかし、駐妻という立場である以上、終わりもまたコントロールできるものではない。帰国後に、キャリアの壁にぶつかることになった。
キャリアに悩む駐妻たちを支えたい
飯沼: シンガポールからの帰国が2013年、当時39歳でキャリアに悩んでいました。上の子は8歳でしたが、下は2歳手前。仕事したくとも就活のために施設に子どもは預けられないし、預けてまで働くことに夫は消極的でした。上海やシンガポールではメイドさんが雇えるので、夫も家事をする必要がなかったことも背景にあります。八方塞がりの状態でひたすら図書館で本を借りて読んでいました。その頃、ありがたいことに義母が子ども見てくれることになり、本などの影響から興味を持ったコーチングスクールの体験講座に行ってみたところ、(個人でも仕事ができるので)これいいなと。そこで資格を取ったあと、自分のお客さんは駐妻だろうなと思っていました。
水嶋: 駐妻時代、飯沼さん自身は積極的に動かれていた訳じゃないですか。そこですでに「お客さんは駐妻」というイメージができていた理由はなんですか?
飯沼: 私はもともと積極的な性格で、高校時代にはアメリカに留学し、学生時代も中東に行ったりしていたので、海外生活に抵抗はありませんでした。ただ周りの全員がそうという訳でもなく、上海では住人の99%が日本人というマンションにいましたが、「敷地からほとんど外に出ない」という人もいたんです。駐妻生活が外から見て華やかな世界と言われても、決してそうではないというギャップは感じていました。
水嶋: 両方を見てきたということなんですね。
飯沼: それから細々とブログとメルマガをはじめ、駐妻向けのオンライン交流会を定期的にやる中で、ある日「キャリア」をテーマにしたときにドドドッと申し込みが来たんです。そこではじめて「みんなキャリアに悩んでいたんだ!」と気づいて。でも、確かに、私自身も帰国後に悩んでいたことはキャリアだったんですよね。
そうして駐妻caféを立ち上げた飯沼さん。その成り立ちも、駐妻の「キャリアの中断」の存在を裏付けている。ブログ以外にもちゃんとしたサイトをつくりたいと思ったが、あまりに人手が足りないのでメルマガでボランティアスタッフを募集したところ、20名もの参加希望者が現れたのだ。
飯沼: 驚きました、みんな自分の力を持て余していたんだと。実は「ボランティアでいいんだろうか、図々しいんじゃないか」という思いもあったんですが、友人からの励ましもあったので、恐る恐る募ってみたんです。でも、逆に感謝してくれる参加者もいて、「そうか、これでみんなが活躍する場所ができたんだ」と分かりました。
いま、駐妻caféの運営メンバーは50人近く。これまでの2年半でメンバーとして活動した人の中には、会計士、保健師、栄養士、教師、あるいは広報、マーケティング、SEなど多種多様な経歴の優秀な人材がいるという。考えてみれば納得だ。飯沼さんが話す「力を持て余している人」は、もともとは日本でキャリアを磨きつづけてきた人たちなのだから。
水嶋: 最後に聞かせてください、飯沼さんの原動力は何ですか?
飯沼: 「もったいなさ」です。これまで駐妻生活を送る中で落ち込んでいる人達の話を聞いてきて、「能力があるのにこの状態になるのはあまりにもったいない」と感じることばかりでした。その人を活かせない状況とは何なんだろうと。駐在員である夫の会社から手当が出るとはいえ、日本での収入とは比べものになりません。会社の認識がズレてきている。欲を言えば、夫の会社からの制約はもちろんのこと、ビザの面で就労が制限されなければよいですが、仕事ができなくとも、ボランティアだってあります。海外で暮らすことをポジティブに捉えるという心の持ち方ひとつで、経験の価値は変わるはずです。
「駐妻」の悩みから考える幸せの多様化
共感する話ばかりだったと同時に、自分自身を反省した。
私がベトナムに住んでいた頃は、駐妻の方とは接点も多くなく、また現地在住者の友人女性もうらやんでいたので、世間でいう「優雅な暮らし」をそのまま信じ込んでいた。確かに生活はよいかもしれない、いまは駐在員も待遇を含めてさまざまだと聞くが、会社都合で送られながらさすがに悪い扱いにはならないとは思う。
しかし、物質的に恵まれているのなら問題ないと言える人がどれだけいるのだろうか。これまでの生活環境を変えさせる代わりに、プール付きの豪華高層マンションを与えられることでバランスがとれる人ばかりじゃない。至極当然の話だが、駐妻の前に個人としての幸せの尺度がある。会社が就労させたくない理由を想像できない訳でもないが、まずは選択できるということが、ひいては家庭の平穏と駐在員が仕事に打ち込める環境整備にもつながるはずだ。
最近では、海外赴任になった妻に帯同する「駐夫(ちゅうおっと)」という事例も増えてきているという。選択肢が増えておもしろくなってきたな、と思う。
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