カフェは泉野さんを離さない。日本でコーヒー豆専門商社で働き、ベトナムという地で日本語教師としてキャリアをワープするかと思いきや、やっぱりカフェに関わる仕事に戻ってきた。しかしそこで郷里の心に火が付いたことで、いまは出身・岐阜で地域おこし協力隊に着任、地域の食材を使ったカフェやお土産開発など町の経済活性化に取り組む。いよいよ本題に入ったと思われる彼女のキャリア、背景にあるベトナムの経験について語ってもらう。
目次
山里のカフェと薬草コーラでまちおこし
水嶋: お仕事について聞かせてください。
泉野: 岐阜県揖斐川町の地域おこし協力隊として活動しています。いま取り組んでいる内容は、「地域の食材を活かしたカフェの開業準備」、「山で採れる薬草を使ったクラフトコーラの開発」、またその活動の中で、「町外に向けて情報を発信して揖斐川町の関係人口を増やす」、ということです。
水嶋: 今年3月に着任ということで、(取材時点で)はじまってほぼ1カ月ですね。泉野さんは以前ベトナムにいた訳だけど、それからどんな経緯でその地域おこし協力隊となったのか?詳しく聞かせてもらいたいと思います。
ベトナムでコーヒーを考える2年間
水嶋: ベトナムに渡った経緯は?
泉野: 新しく立ち上げる日本語学校の教師として行きました。ただ、学校そのものが結局できなくて。ベトナムを離れる前にどうしてもコーヒー農園が見たかったのでバンメトートという街へ行き、そこで出会った日本人の方が現地でコーヒーとカカオの事業を考えていてのちに誘っていただきました。
水嶋: コーヒー農園が見たかった理由は?
泉野: 日本ではコーヒー豆の専門商社で働いていたんです。地元の岐阜はモーニング(外で朝食をとる)文化があるので私にとってコーヒーが身近で、学生の頃にもカフェの運営に携わっていたこともあり就職しました。ただ、それまで実際の農園を見たことがなかったので、一度行ってみたかった。
水嶋: ちなみに、商社から日本語教師に転職した理由はなんですか?
泉野: お誘いがあり、海外で働くことを一度してみたかったからです。
水嶋: なるほど。ベトナムは転職後が長いんですね、どんなお仕事でした?
泉野: ニャチャンというビーチリゾートに会社が運営するカフェがあったので、そこでスタッフ教育を6カ月間。コーヒーの淹れ方やラテアートを教えました。そのあと半年間は、日本で自社製品であるベトナムコーヒーやチョコレートの宣伝や販売を経て、最後の1年間は首都のハノイにある安南パーラーというカフェに出向してマネージャーとして働いて日本に帰りました。
ベトナムで知った”ハーブの使い方”と”働き方”
水嶋: ベトナム生活で得た価値観などはありますか?
泉野: ベトナムの食文化を学べたこと。みんなで食卓を囲むことを大事にしていて、ニャチャンでは自分があまりベトナム語を話せなくても誘ってくれとてもありがたかった。あとはハーブの活用のレベルが高いんですよね。みんなが一般知識として、『この料理にはこのハーブがいい』と知っている。
水嶋: それでいま岐阜の薬草に関する仕事をしているのは、偶然?
泉野: 偶然です。でも興味を持てたのはその経験があったからと思います。
水嶋: おもしろいですね、点と点がつながって…。
泉野: あと、働き方にも影響を受けました。ベトナムではスタッフのオンオフの切り替えが上手だなと感じることが多くて。日本で働いていたころは、残業が美徳で、先に帰って自分の時間を持つのはよくないことだと考えていたんです。でもいまは家族や友達との時間を大切にするようになりました。
水嶋: じゃあ、ベトナムに行ったことはよかった?
泉野: よかったと思います。日本の教育だとみんないっしょということが正しいという空気があるけど、違和感があっても『自分が正しくないのかも』と言い聞かせていたように思います。でもベトナムだと、みんなそれぞれの考え方が違っても、ひとつの会社でうまくバランスをとって働いている様子を見ていて、『なんだ、違っていていいじゃん』と思うようになりました。
水嶋: それはけっこう、日本以外の国の多くがそんな気もしますね。
海外で感じた”岐阜”を語れないもどかしさ
水嶋: そんな経験を経て、地元の岐阜に戻ってきたんですよね。理由は?
泉野: 実は私、18歳くらいのころからずっと『岐阜ってなんだろう』と思ってて。『なんでみんな岐阜について知らないんだろう』、『なんでみんな岐阜って漢字が書けないんだろう』、って。
水嶋: うっ…私も岐阜って漢字を書けないと思う(笑)。
泉野: ですよね(笑)。でもそれ以上に、なんで自分も語れないんだろうという違和感があったんです。ベトナムにいたときに現地の人から聞かれても答えられない。そこで知りたい、という使命感が芽生えたように思います。
水嶋: うん。海外にいたあと、地元もふくめて、地域おこし協力隊として日本の地方に向かう人を少なからず知っています。揖斐川町は地元だったの?
泉野: いえ、地元から車で30分くらいは離れている町なんですが、ただ昔から星を見るために親に連れて行ってもらったことが2~3回はありました。
水嶋: それだけ空気がきれいなんだ。
泉野: いまの職場はもともとは、帰国後ハローワークに行ったときに、『揖斐川町の歴史を聞きながら料理をつくる』というワークショップのビラを見つけたことがはじまりです。もともと岐阜への思いもあったので揖斐川町への興味がふくらんで、地域おこし協力隊という制度を知って応募しました。
水嶋: それまで知らなかったの!?協力隊では珍しいパターンですよね。
泉野: はい。最初から揖斐川という接点があったので、面接でも『揖斐川町以外の募集は調べていない』と話したら不思議がられましたね(笑)。
水嶋: 岐阜出身とはいえ、出身でもない人が来たらそりゃ不思議だわ。
帰国就職に悩む友人がいればなんと言う?
“自分を信じろ。帰国後は周りの同年代にならってもう一度企業で働くかと思ったけど、選考が進むほど『本当に働きたいのかな』と思いはじめていました。そこで揖斐川町の仕事と出会ったときに五感ぜんぶでわくわくして、選考中の会社をぜんぶ断った。いまはお金で買えない価値や経験が多く、すごく満足しています。(泉野かおり/2017~2019年・ベトナム在住)”
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