“ブラジルに住むことが小さい頃からの夢だった。駐在員として現地に渡る道も模索したが、東日本大震災によってその状況も変わり、一念発起し単独でブラジル移住。自身を現地化すべく無償労働を含めて4年間非日系企業唯一の外国人として働いたあと、会社を2度立ち上げ。移住から数えて8年が経ち、いくつかのタイミングが重なり日本に戻ってきた。しかし「本帰国」とは考えていない。あくまでもまたブラジルに戻る前提で、つながり続ける意識でいるから。”
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幼少の頃からブラジルは”憧れの地”だった
砂塚: ブラジルとの接点は、小中学生の9年間所属していた地元サッカークラブ。その代表者がブラジル大好きだったんです。ユニフォームは黄青白のブラジル代表カラー、クラブバスも真っ黄色で、チーム名もポルトガル語でした。そんな環境で生活していた僕にとって、ブラジルが本当の意味で「憧れの地」となったきっかけは、クラブで初めて開催されたブラジル遠征。もちろんめちゃくちゃ行きたかったわけですが、親からは「そんな金うちにはない、行きたいなら自分で稼げるようになってから行きなさい」と言われて行けずに終わりまして。確か、そこからでしたね、僕がブラジル・ブラジルと狂ったように言いはじめたのは。きっと、その時の悔しさが一種の執着心として無意識に根づいていたんだと思います。まぁ、実際それが執着だったと客観的に認識できたのは、実はつい最近のことだったりもするんですけど。
中学、高校、サンバやボサノヴァなどのブラジル音楽を聴き、ブラジル料理を食べ、周りからは「ブラジル好き」で通っていた。大学に入ってバイトで資金を稼ぎ、いよいよ憧れの地ブラジルへ一カ月間一人旅。恩師であるクラブ代表者の友人(ブラジル人)の家にホームステイ。出会う人はみな、優しい、おもしろい、人懐っこい。小さな辞書片手に回り、ブラジルに魅了された。
砂塚: 憧れの地でしたからねぇ。もう目にする物、手に取る物、口にする物、全てが最高でした。 いまになって思えば、現地で食べた料理がおいしくなくても「これはブラジルの食べ物だから美味しいはずだ、きっと俺の舌がおかしいんだ」と思っていたかもしれません(笑)。それだけブラジルは良いものだと思い込んでいました。また、一人旅だったお陰で自分が感じたものをそのまますべて自分の感覚で消化できたのは良かったですね、自分が良いと思ったものは他人の意見の影響を受けることなく素直に良いと思えたので。ますますブラジルが好きになり、住みたくなりました。
30歳を前に一念発起、退職して、ブラジルへ。
これまで高校進学・大学進学・就職活動など人生の分岐点ではいつも「ブラジルに行くか、日本に残るか」と考えてきた。リクルートに入社して働きはじめたあとにも思いは募った。そして29歳の誕生日、「来年から30代、今後どうするか。ブラジルに行くか、日本に残るか…」。そこでふと気付く。「自分は死ぬまでこの自問を繰り返すつもりか?」-。当時ブラジルは、2014年にW杯、2016年に五輪を控え、世界からはBRICs(2000年代以降著しい経済発展を遂げているブラジルを含めた4ヶ国の総称)の一国と騒がれ、ノリに乗っているように見えた、「いましかない」。そこで準備を進めるべく、まずは情報収集を兼ねて、ブラジルのニュースを日本語で配信するサイトをつくった。
砂塚: ブラジル関連ニュースに自分なりのコメントをつけて紹介するサイトでした。いまでいうところのNewsPicksのブラジル特化版みたいな。最初は自分用の情報収集のためだったものの、ブラジルに興味のある日本人に結構たくさんアクセス頂いて、いろんな人と知り会う機会が増えていきましたね。名刺代わりに使って「こんなサイトを運営しているのですが、お話聞かせてもらえませんか?」とブラジル関係者にコンタクトを取ってもみたり。移住における最後の決め手は、その頃に会った1人の大学生の女の子。軽い感じで「ブラジルで就職活動してきたんです」と話していて、自分より若い子がサクッと現地に行って活動しているのを知り、ブラジルに住みたいと言いつつ何も行動していなかった自分がかっこ悪く恥ずかしいと感じた。移住を決めたのがちょうど30歳になる頃でした。
上司に「1年後に辞めてブラジルに行きます」と伝えると、驚きつつも「行って何するの?」と。まだ決まってませんと応えると「うちの会社をうまく使って行く方法ないの?」というアドバイスが。考えてもみなかった選択肢、だがやれない理由もない。すぐに業務外の時間を使ってブラジルの市場調査をし、「リクルートはブラジル進出すべきである」と結んだ資料を海外進出系の部署に提案。最終的にその部署からは却下はされたものの、当時の所属部門の担当役員がそれを聞きつけ、その部門用に新たなリサーチ&提案を作成。このプロジェクトをやらせてくれないなら自分は退職すると伝え、最終的には1カ月間の出張による現地調査のチャンスを得た。
砂塚: 1カ月間では何も出来ずに終わると思っていたので、実際には3カ月間行かせてもらいました。1カ月間のオフィシャルな出張に加えて、3年勤めると1カ月間もらえる長期休暇をくっつけ、そして時期的にGWもあったのでそれもくっつけ、更にその時に持っていた有給休暇を全部くっつけ合計3カ月間。だいぶ強引でしたけど懐の広い会社で助かりました(笑)。
それが何の因果か、ブラジル出張への出発は東日本大震災の一週間後。ブラジルで調査をはじめて一カ月が経ち、日本から「東北の復興にもお金がかかるし、今期の新規投資は全て凍結するらしい」という話が聞こえてきた。帰国後正式に「経営会議にかけられる状況ではない」という通達。ならば最後の手段として専務に直接アプローチ、反応は悪くはなかったが、「ブラジルに常駐させる可能性はない」と明言されて、退職を決めた。
砂塚: 専務が言うにはブラジル常駐ではなく「日本を拠点」とした出張ベースで、かつ「ブラジル担当」ではなく「中南米担当」としての働き方であればいいよということでした。でも僕の目的はあくまでブラジルに身を置くことであり、かつ中南米の他国には全く興味がなかった。そしてなにより「あの国は片手間でやってどうにかなる国ではない、現地社会にどっぷり浸かってやったとしても、果たしてうまく行くかどうか…」と思っていたので、「でしたら僕は辞めて、一人で行きます」ということになり、会社を辞めました。だいぶ生意気だったかもしれませんが、とはいえいまでもあの判断は間違っていなかったと思っています。
ベンチャーと大企業を渡り歩き、苦い経験も経て、独立。
2011年9月、ブラジルに移住。起業を念頭に渡ったが、言語(ポルトガル語)と商習慣のどちらもまだ自信はなく、働く上でビザの問題もクリアしなければならない。そこでまずは現地企業で働き学ぼうと考えた。
砂塚: リクルートの出張で滞在していた時にいくつかの現地企業と接点を持っていたので、そこへ「雇ってほしい」と売り込みに行きました。でも、どこの馬の骨ともわからず、しかもポルトガル語すらろくに話せない外国人を雇うリスクは高く、なかなかOKはもらえませんでしたね。結局、おもしろいサービスをしていたネット系の地場ベンチャーに「3カ月間無償でいいから働きぶりを見て判断してほしい」と伝え、向こうも「タダならいいよ」となり働かせてもらいました。約束の3カ月後に正式に就労ビザも面倒見てくれるという話にはなったんですが、ブラジルはそのあたりが本当に大変で、手続きはしていたものの就労ビザは得られず、結果的には1年半の間タダ働きでした。
水面下で給料は払えるという提案もあったが、断った。ブラジルに移住する覚悟で来ているので、永住権取得を見据えている。就労ビザがない状態で報酬を得てしまうと、永住権取得にとってリスクにもなり得ると思ったからだ。空腹はバナナで満たした。そうこうしている間に、当時所持していた学生ビザの期限である2年が経とうとしていた。急いでつながりのあった大企業の経営者に相談。それまで無給だったとはいえ実績もあったことで無事に決まった。
砂塚: ブラジル現地のベンチャー企業と大企業、いずれも社内で唯一の外国人として働いて現地の商習慣を全体的に見ることができました。そこで当初から予定していた起業をしようと、1社目で一緒に働いていたCTOと一緒にウェブサービス事業のスタートアップを立ち上げたんです。
しかし事件は起こる。この共同創業者とはブラジル移住間もない頃から知る仲、奥さんや子どもはもちろん、相手の両親や義理の両親まで知っているような家族ぐるみの付き合いだったが、金銭面での不正が発覚し、解散。
砂塚: 事前にいろんな人から「ブラジル人とビジネスをするなら注意しろ」と散々言われていたのですが、付き合いも長く何より信頼していたので、さすがに自分のケースは大丈夫だろうと思っていましたね。確かに不正が起き得るリスクがあることは認識していたんですが、発覚したときはショックというか呆然としましたし、軽く人間不信になったりもしました。いまではそのあたりは整理できています。仕組み上、不正ができてしまう状態にあったという点で、僕に非があったと思っています。やはり人間は弱い生き物ですから。
ブラジルの食や自然を堪能しながらアマゾン川流域で営業活動
苦い経験を経て、今度は独りで立ち上げると決め始めた事業が「BBB Rooms」。家族経営の小規模独立系ホテルの部屋を束ねてひとつのチェーンブランドとして展開する。きっかけは日本ではまだ無名だったOYOに孫正義氏が投資したというニュース。記事で詳細は明かされていなかったが、ビジネスモデルを推測し、OYOも近いうちにブラジルへ進出してくると見て、EXITシナリオ(売却)の可能性を感じたという。
砂塚: 2014年のW杯のときに、300~400人が入れるホテルを手配したことがあったんです。開催が近くなってからの依頼だったのもあり、既に空室があるような状況ではなかったのですが、最終的にはとある独立系ホテルを一棟貸し切ることができました。なぜならそのホテルは、自社サイトもなければBookingにもTripadvisorにも、なんとGoogle MAPにすら載っておらず予約がなかったんです。その時に「ネット上に載っていないホテルも存在するのか!」「彼らはこのW杯という一大商機に予約ゼロで過ごそうとしていたのか!」と衝撃を受けたんです。
その時の経験もあって、解決すべき市場の課題は身を持って感じていた。一社目の苦い経験から、なるべく人を使わずに一定の規模までは一人で拡大させようと、自らの足でブラジル全国各地のホテルへ営業に回った。
砂塚: 最初はサンパウロからはじめ、その後にリオデジャネイロなど、主要7都市を回りました。その中で分かってきたのは、やはりあまりネットが普及していないエリアが良さそうだということ。具体的にデータを分析してみると、アマゾン川流域の田舎町のポテンシャルが大きそうでした。そうと分かれば即行動。その時借りていた部屋を引き払って、スーツケース1個を片手に、一年弱の間、船やバンでアマゾン川流域を街から街へと移動しながら営業に回ることに。その様子をSNSにアップすると知人友人からは「遊んでるんでしょ」とからかわれましたが、実際に、見たこともないフルーツや魚に飲み物を楽しみながらの営業はすごく楽しかったですね。
知り合いのブラジル人もほぼ行ったことのない、言わば辺境というような場所を日本人が営業に回る。それは根っからのブラジル好きであった砂塚さんだったからこそできたことかもしれない。自身も「日本人の中でもトップクラスに(その状況を)楽しめる人だった」と語る。
砂塚: ポルトガル語での電話は得意ではなかったので、ひたすらホテルに飛び込み営業しましたね。アマゾンの炎天下、1日中歩き回って汗だくですよ。文字通り靴底を減らす日々で、この一年弱の営業ツアー中にスニーカーを何足か買いました。毎日飛び込み営業をしながら、契約成立したら取材をして、写真を撮って、原稿を書いてサイトにアップして、予約が入ったら予約客への対応も、もちろんクレーム対応も、何から何まで全部やりました。各地で美味しいものを食べまくったのに5kg以上痩せましたもんね。
そうして、丁寧な顧客対応で好評価を積み上げて3年弱。当初の目論見通り、OYOがブラジル進出するという話を聞きつけインドのCEOにトップアプローチ。不慣れな英語での交渉の末、事業譲渡をした上で自分自身もOYOブラジルの中に入って立ち上げを行うという形にまとまった。
帰国後はリハビリを兼ねて「古巣へ出戻り」
砂塚: 日本に拠点を移すことになったのは、永住権取得、OYOの進出、日本人との結婚という3つのタイミングが重なったからです。永住権はとくに大きいですね。ビザ問題で苦労していたときに「ビザをもらえない=ブラジルにとって不要な人間」と言われていると解釈していました。それがようやく永住権を取得できたことで、ついにブラジル社会から認めてもらえたんだな、と。これでいつでもブラジルに戻ってこれるし、雇用されることも、起業することも、何不自由なくできる「自由」を与えられた気がしましたね。そんな開放感もあって日本に拠点を移すことにはしましたが、未来永劫日本に住むのではなく、あくまで「いまは」日本に住もう、というイメージです。
当初は帰国後のキャリアを「起業かスタートアップに参画するか」の2択で考えたという。しかし8年間のブラジル生活でいまの日本の事情が分からなかったため、リスクが高いと判断し、自身にとって古巣であるリクルートに出戻りするという選択肢をとった。
砂塚: ずっと日本人ゼロの環境にいたので、日本のビジネス習慣も忘れているんですよね、名刺の渡し方とか、約束の時間を守るとか(笑)。日本語すら怪しかったです、日常ではほとんど使っていなかったので。なのでしばらくは日本へのキャッチアップも兼ねて勝手知ったる会社で働かせてもらおうと出戻りました、幸いにも僕がお役に立てることがあるとのことだったので。
帰国から1年。新たに取り組み始めたチャレンジは、ロボット系のスタートアップだ。
砂塚: 日本に閉じたビジネスは嫌だったんですよね、人口が減る国で日本で閉じたことをやるよりは、世界に持っていけるものがいい。もともと大学院まで2足歩行ロボットの研究をしていたのもあって、15年経って原点回帰するのもありかと感じたのもあります。超優秀なエンジニアがいるチームで、唯一の非エンジニアとして、ビジネスとテクノロジーの懸け橋のような役割ですかね。いままでとはまた違った新しく大きなチャレンジなのでわくわくしています。
「迷惑をかけてはいけない」という呪縛からの解放
最後に「ブラジル生活(海外経験)で得られたものは?」と砂塚さんに尋ねると、「日本を外から見れるようになった」「自分と向き合う時間を過ごせた」「人に期待しないことができるようになった」という答えが並ぶ中で、「『人に迷惑をかけない』という呪縛からの解放は大きいと思う」と語ってくれた。
砂塚: 日本にいると気付きにくいですが、日本は「人に迷惑をかけてはいけない」ことを当たり前としている文化なんですよね。でも世界に出るとそれが当たり前とは限らない。世界でやっていく時に「人に迷惑をかけずにやる」分には何ら問題ないとは思いますが、一方、そういう環境で育っていると「人から迷惑をかけられる」ことへの免疫がないんですよね。迷惑をかけられたのに相手が非すら感じてないのを見て、イライラしたり、ついカッ怒ってしまったり、「謝れよ!」なんていういかにも日本人的な発言をしてしまったり。僕もブラジル生活3年目くらいまでは、この「人に迷惑をかけてはいけないという呪縛」に苦しめられました。
これには私もまったく同意する。迷惑をかけないということは「迷惑をかけるくらいなら何もしない方がいい」という体のいい逃げ道になってしまう。動かなければ、何にも成せない。海外生活を送れば誰もがそうなる訳じゃない、結局のところはどう過ごしたか。それは明々白々だ。その上で、日本で暮らしていると無意識に根付く「呪縛」に気づきやすい環境に海外であれば身を置けると思った。
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