ミャンマー在住邦人・憩いのバー、原体験はボランティア調整員|本田哲也

ミャンマー最大の商業都市、ヤンゴン。そこに『東京ラブストーリー』という名前の、世代によっては思わずニヤリとするバーがある。オーナーの本田さんは、「このお店は、現地に住む日本人の憩いの場であり避難所でありたい」と話す。その背景には、かつてボランティアとしてウガンダで活動したときにお世話になった人物と、その人の立場に憧れて自身も経験したボランティア調整員という仕事があった。

本田さん(左端)とスタッフのみなさん
東京ラブストーリー店内、カウンターにはコロナ感染対策にシートが張られている。
プロフィール本田哲也(ほんだ てつや)。1974年生まれ、横浜市出身。商社勤務を経て、青年海外協力隊としてウガンダに派遣。その後、新宿でのバーの店長や、ルワンダやミャンマーでの協力隊事業の支援を経て、現在はヤンゴンにてバー『東京ラブストーリー(TOKYO LOVE STORY)』を経営。/東京ラブストーリーHP

いまの仕事に向いてない、上司の後押しもありかつて憧れた青年海外協力隊に。

本田: 新卒で入った先は、商社。ゼネコンや水道局が扱う、太さ60cmから1mくらいの水道本管を売っていました。納期に時間がかかるものなので、材料を間違えると二か月待ちは当たり前。そんな、正確さを求められることと、現場の予算と会社の利益の間で悩むことも多く、休日はいつも心が休まらない状況でした。

そんな中で時間をつくって旅行に出かけたカンボジア。しかし、アンコールワットの朝日を見て何も感動できない自分に気付き、「この仕事に向いてないかもしれない」と思いはじめたという。帰国後に上司に退職の意志を伝えたところ、本社に呼ばれ、意外な返事が返ってきた。

本田「やりたいことを見つけろ、そうしたら辞めさせてやる」と言われて。そこで思い出したものが、青年海外協力隊でした。大学時代に電車で広告を見て、男の人がすごくいい笑顔で写っていて、こんなにいい顔で活動できるならやってみたいなと。当時、説明会を受けたんですが、特殊技能がなければ合格競走倍率は10倍と聞いて、応募には至らなかったんです。でもいまなら社会人として5年間の経験を積んだのでいけるのではないかと、一度は落ちましたが、二度目で合格。それで上司も気持ちよく送り出してくれましたね。

商社時代の本田さん
現在、バー『東京ラブストーリー』を経営する本田さん

任地のウガンダで出会った調整員という仕事

任務地は希望したパナマだったが、実際に派遣された場所はウガンダ。はじめて聞いた国での村落開発普及員、おもなミッションは集落で使われている生活用水の改善と、村人たちへの衛生教育だった。

本田: 井戸は100個以上あったけど6割ほどしか使われていない状態で。原因はそもそも壊れていたりだとか、水自体はそのまま飲んでもきれいだけど、それを貯めるポリタンクの中が真っ黒で汚いだとか。これが原因で、下痢とかになって亡くなる子どもも多かった。

しかし、現地では「苦戦した」と話す本田さん。プロジェクトに取り組む同僚たちは地元大学で水について学び、英語も堪能、「文系(商社)で5年いた日本人に何ができるんだ」という態度を感じていたという。

本田: 「外国人(日本人)がいるから話くらいは聞いてやろう」というくらいの感じで。ほかになにか貢献したとすれば、近所にあったキヨスクが私がいつもビールを買うので儲かって、段々と大きくなっていったことですかね(笑)。

そんな苦戦つづきだったウガンダでの2年間で、転機となる出会いに恵まれる。

本田: 2年間いた中で、現場向きの人とそうじゃない人がいるなということが分かりました。それにつながってくる話ですが、現場の事務所にいた調整員(青年海外協力隊と現場のマッチングや、サポートを行う役割)の方が素晴らしい人で、「その人みたいになりたい」と思ったんです。現場の主役ではなく、そんな彼らが困っていることを支えていく立場。手を差し伸べすぎず、考えさせる。かけてくれる言葉もあたたかいし、突き放すこともあるけどちゃんと見てるよと。

ウガンダで青年海外協力隊として派遣中の本田さん(左端)
ウガンダでの食事

帰国後にシニア隊員と訓練所スタッフを経て、正式に調整員に。

憧れの存在ができ、調整員を志すことに。ウガンダの任務を終えたあと、シニア隊員(現行制度の40~69歳の経験・技能を要する隊員とは違い、当時は青年海外協力隊を一度経験した隊員を指した)として再びウガンダへ飛ぶことになった。

本田シニア隊員は調整員の補佐として、現場に飛んで視察したり、新しい任地を開拓するのが業務。その中で我が家で料理をつくったりお酒を飲みながら隊員たちの悩みを聞く中で、「いずれこんな風に人の心の支えになるお店をやってみたいな」と思うようになりました。そうして任期もあと残り数カ月というところで、JICAともつながりの深い米坂さんという経営者の方が出張でやってきて、大使館職員の方も呼んで飲み会を開いたんです。そこで『本田さんお店やりたいみたいですよ』という話が出て、ちょうど米坂さんが『国際協力関係者が集うビアバーをはじめたくて、店長を探している』と言って、翌朝呼ばれて、話はトントン進んでいきました。

新宿で構えていたバー内観、いま拾える写真はこれだけとのことで小さめサイズ。

任期を終えて帰国。当時はJICAの本拠地が新宿にあったため、新宿御苑にお店を構えた。お店は2年続いたが、本田さんは1年で退職。新興国から輸入した製品の値付けや、店舗のキャパシティ、ほかにも店長としてできることとできないことにも限界を覚え、「自分の夢は自分で叶えないといけない」と感じると同時に、ウガンダで思っていた「お店を持つ」ということが本格的に夢に変わっていったという。

本田: シニア隊員も終えていたので、改めて調整員を受験。結果は落ちてしまったんですが、訓練所(青年海外協力隊が派遣前に語学や技能などを習得する施設)で働く仕事があって、「協力隊事業全般を見れるし、どう?」という声が掛かり、そこで働いたあとに、調整員に合格して派遣されることになりました。

シニア隊員時代の本田さん(手前、右端から二番目)

ミャンマーでの調整員派遣から、バーを開店することに。

派遣された先はルワンダ、そしてミャンマー。同じ調整員でもそれぞれの内容はまったく異なった。前者では40~50人の協力隊がいて統括の人物の支持のもとで活動。一方で後者は協力隊派遣がはじまったばかりでまだ8人体制、本田さん自身が統括として予算繰りに指示と、何から何までやらないといけなかったという。

本田: ミャンマーでは、日本からどんな人材に来てほしいのか政府と内容を詰めるところからでした。たとえば、小中学校で児童の計算能力を高めたいからそれを教えられる人がほしいとか、英語の読み上げができる人がほしいとか。一方では、農薬が過剰に使われているのでそのノウハウを教えてほしいとか。扱う業務はあらゆる分野です。かといってそれをそのまま日本側に伝えても、国内の農業従事者も「海外に行きたい」という人がいなければむずかしい、お互いのニーズを考えないといけませんでした。

東京ラブストーリーの棚には、お酒に書籍、スタッフと楽しむパーティグッズが置かれてある。

来てほしい人物の要件などが決まってからも、日本から隊員が派遣されるとなれば家探しをしたり、電気や水道のインフラ整備不良に対処したり、選挙前には安全連絡を徹底したり、隊員から上げられた報告書を読んでコメントをしたり、活動現場への視察に行ったり。とにかくやることが盛りだくさんだったという。

しかし、一時帰国中に体調を崩し、結核に罹っていることが判明。急遽任期を短縮し、しばらく日本で療養生活を送ることになった。そんな生活の中、かつて「自分の夢は自分で叶えないといけない」と思った過去を振り返り、実現を決意。料理とお酒の勉強、そしていまのお店『東京ラブストーリー』のコンセプトを練りはじめた。

女性スタッフと愛犬スタッフ

本田: こっちだと仕事での悩みは多いし、海外慣れしていない人だと、停電や雨漏りがあれば、食事事情も日本と違うことに苦労する。でも、とくに仕事関連だと近くにいる人には話せなかったりするので、そういう人達が悩みを吐露できるような憩いの場であり避難所でもあるような場所でありたいと思いました。

最終的に落ち着いたスタイルは、本人いわく『なんちゃってガールズバー』。ミャンマーの商業都市ヤンゴンは商圏が広く、日本の居住エリアが点在しているという。気軽に日系店に寄ることがむずかしいため、「あの子がいるから行こう」というのが来店の原動力になる。スタッフには日本語教育をしていて、お客も日本語での会話やゲームを楽しめる。また、本田さんにも、ビジネスや観光の話を聞きに来る人も多いという。

ミャンマー人スタッフのみなさん

ミャンマーでちゃんと人間関係をつくり、正しく生きる。

本田さんの話を聞いていると、お店のスタッフたちを大事に、それこそ家族同然に接しているということが分かる。そもそも住居も、寮という形でスタッフたちとシェアハウスをして、なるべく彼女たちがお金を貯められるようにしている。誕生日のお祝いや社員旅行もまめに行っているとのこと。

本田: いまうちにいるスタッフは楽しく働いているし、幸せだと思ってくれていると思います。お客さんとの接点を通じて、日系企業に転職したり、あるいは起業をするなど、彼女たちにとってもいろんな夢を持てる場所にしたいですね。

コロナ禍でとくに逆風の吹く飲食店、バーというスタイルならなおさらだ。本田さんも「この状況がもしさらに1年つづいたらやめるしかない。だからこそ、いまは体力を溜めて、いっしょに働いているスタッフを大切にしていく」と話す。

青年海外協力隊に憧れて、当時の上司の後押しもあって晴れて合格しウガンダへ。その先で調整員という仕事に憧れ、協力隊のサポート側として再びウガンダに渡り、そこでの出会いから国際協力関係のひとびとが集うバーの店長に。そして名実ともに調整員としてルワンダとミャンマーで活躍し、現在は立場を変えてミャンマーで働く日本人の悩みを聞きつつ、スタッフたちと家族同然に暮らす。

最後に、自身の海外移住についてどう考えているか尋ねたところこんな答えが返ってきた。

本田: アフリカで8年弱、ミャンマーで6年以上住んでいますが、「移住」という捉え方はしていませんいまの時代はいつでも日本に帰られるし、ほかの国に行くこともできる。ただ私はミャンマーもミャンマー人もとても好きなので、ビジネスを通じてこの国に貢献できないかと考えています。『最後のフロンティア』と呼ばれ大勢の日本人が群がる時期もありましたが、コロナ前でもそんなに夢が詰まっているような甘い国ではないと感じています。ちゃんとした人間関係を構築し、正しく生きていれば、大金持ちには慣れなくてもミャンマー人と楽しく生きられると思っています。当分の間、ここでいろいろなことにチャレンジしていきたいですね。

東京ラブストーリー(ホームページ)


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