アフガニスタンにてかんがい事業や農業支援に取り組む、ある『医師』がいた。彼の名前は中村哲(てつ)。1983年に現地での医療活動を開始、また井戸事業も行う中で、彼をサポートする団体として「ペシャワール会」の活動もはじまった。後に大干魃(だいかんばつ)による被災をきっかけに、「病気の背景には慢性の大干魃と食糧不足による栄養失調がある」と考え、2003年以降は用水路建設を開始。自給自足の生活や換金作物の生産など本来の農業生産体制を復活させたが、2019年12月に、何者かによる銃撃を受けて亡くなった。
今年10月には地元民たちがその功績を讃え、緑化されたガンベリ地区の一角にある「ドクター中村・メモリアルパーク」の中央に中村医師の肖像が描かれた記念塔を建造。そんな氏の下で7年間働いた人物が、今回話をうかがう杉山大二朗さんだ。中村医師との出会いと別れ、アフガニスタンでの暮らしの中での出来事、地元・福岡の日本語学校で教鞭を握るまでの経緯について話してもらった。
目次
旅道中で見た写真がアフガニスタンへ導いた
杉山: 18歳に福岡を出て神奈川で大学生活を送り、東京で働いたあと、2000年に1年間ほどいろんな国を放浪しました。その道中でスウェーデン人の旅人から、パキスタン北西の山岳地帯の写真を見せてもらったんです。帰国後も、美しくて峻険な山岳地への憧れは募るばかりで、パキスタンだけに絞って度々訪れるようになりました。現地ガイドを雇ってインダス川の上流や雪解け水でできた湖でマスを釣ったり、氷河の近くに住む遊牧民たちの生活を覗かせてもらったり、電気もガスも水道もない辺境の地にますますのめり込んで、「いつかこんなところで暮らしてみたい」と思うようになっていった。
そんな旅の思い出を帰路のタイにて現地在住の友人に語ったところ、彼は「隣国のアフガニスタンに行って帰ってきたばかり」だという。土産話を聞いているうちに段々とパキスタンよりアフガニスタンへ興味が湧いてきて、調べてみると、現地で医療活動や用水路の建設をしているというペシャワール会という団体に行きついた。現地代表の中村医師の写真を見ると、どうも見覚えがある顔だ。
杉山: このタワシひげのお医者さん、どこかで見たことあるなと記憶を反芻したところ、子供の頃に小学校から講演会のお知らせのような印刷物があり、それに中村医師の顔が載っていたなと。彼が、隣町出身の、イスラムの国で医療をしているお医者さんだったということを憶えていたんです。
そんな中村医師率いるペシャワール会が、現地で働く日本人ワーカーを募集していた。住んでみたかったパキスタンの山岳地帯ではないが、同じイスラム圏のアフガニスタンにますます興味を持った。地元の事務局を訪ねてみると、早速「来週から行きますか?」という提案。急にアフガニスタンへの渡航が現実味を帯びてきて驚く。
すぐには無理だけどぜひ行きたい。「いまの仕事を片付けて1年後に必ず行きます」と約束し、その言葉通り、2005年2月にアフガニスタンへ向かった。向かう途中で、きっかけとなったタイの友人と再会し、「必ず生きて帰って来いよ」と固い握手を交わして激励してくれた。しかし、すべてが順風満帆だったという訳ではない。
出発前の周りの反応はさまざまだった。「理解できん」「ついに自暴自棄になったか」と貶す者もいれば、「頑張れ」「きっといい経験になる」と応援する者も。ただ、それまで続けてきた仕事は漫画やイラストの制作だったので、長期取材と考えて1年で帰ってくるつもりで構えていた。それが最終的に7年に及んだ理由については、「責任です。目の前で死にそうな人たちを放って逃げられんでしょ」と杉山さんは語る。
青い鳥を探して…診療所運営に用水路建設、農業まで。
ペシャワール会のボランティアとして現地で働くスタッフのことを、「現地ワーカー」と呼ぶ。そのワーカーとしてはじめ与えられた仕事は、植樹と料理。
植樹は、造設された水路の両脇に柳やユーカリやポプラなど根が強くて乾燥に耐える枝を挿し、毎日水遣りをする。作業自体は簡単だが、周りはパシュトゥ語を話す現地のアフガン人のため、英語を話す現地スタッフから言葉を教えてもらって、ノートに記録しながら少しずつ言葉を覚えながら働いた。教えてくれる先生などはいないため、すべてが独学で創意工夫を凝らさなければならなかった。
料理は新人ワーカーが担当する仕事だが、当時10人前後いたワーカーで、料理が得意な人はあまりいなかった。朝昼は現地食で、夕食のみ日本食。新人の中で担当できる者が調理するが、その役目はアフガニスタンで暮らす日本人にとって、私たちが想像する以上に重要なものだった。
杉山: アフガニスタンでの生活環境は日本と大きく異なり、人によって向く人と向かない人が出てきます。こればかりは努力しても無理な話で、ワーカーは常に入れ替わりがありました。
その大きな要因が食事。現地ではギーという山羊の乳からできた油を日本食でいうところの味噌のように使うが、臭いがきつくてクセが強い。水も日本と違って硬水でカルシウムや鉄分を多く含んでおり、身体に合わない人は一カ月二カ月にも渡って下痢が続く。さらに夏場は気温50度を超えるのが当たり前なので、体調を崩して疲労がたまり、倒れる者が絶えなかった。
杉山: そんな感じで、3人に1人は倒れて帰っていきましたね。そうして私の後の後輩はなかなか続かないので、しばらくは自分が夕食を作り続けました。
活動した7年間で、資格が必要な医療の仕事を除いてほとんどのセクションで働いた。病院の総務に受付、用水路の建設に農地開拓。自身もマラリアで一度は倒れ、さらに交通事故に二度遭ってむち打ちで苦しめられた日もあった。杉山さんに限らずペシャワール会のメンバーは、どんな理由からそれほど過酷な環境に身を置くのか。そんな話を中村医師としたとき、「青い鳥」と表現していたという。
杉山: メーテルリンクの童話、幸せの青い鳥。生きがいとか、求道とか、修行とか、自分にとって青い鳥を求めていたんでしょうね。どこで間違えて、こんな辺境の地に来たのだろう、と。しかし、そうした動機は本人のためのもので、現場ではどうでもいいことです。根性見せろ、結果を出せ、という現場ですから、理想が高かったり、正義感が強かったり、抽象的な言葉が好きな人は現地ワーカーを辞めていきました。アフガニスタン人はあなたの活躍する場を提供するために困っている訳じゃない、それは我々ワーカーが常々不文律として共通認識として持っていました。「助けに来てやっている」というのは、傲慢な考えで、あくまで現地では、アフガン人が主体的に復興するのを日本人ワーカーがお手伝いする、というスタンスで、出しゃばらずサポートに徹することが大事ですね。
ごまかしの利かない、寓話のような世界の日常。
アフガニスタンに渡る少し前、農業の本を買い込んで持参した。「泥だらけになって覚えろ、意識はあとから身に付く」と話す中村医師だったが、「しかし知識はないよりあった方がいいだろう」と考えてのことだった。
杉山: 本の内容に沿ってやると、現地のアフガニスタン人と意見が衝突して喧嘩になるんですね。だけどやっぱりこの地で何千年と続けている彼らの方が上手。「俺らはお前のように本は読まないけど、ずっとこうやっとるから」と。途中で、自分のやり方は間違っているのではないかと反省しました。本で詰め込んだ知識はあっても、経験がない。つまり、頭でっかちの理屈に偏執していたんですね。それからは謙虚になって、彼らに教わるようになっていきました。
思い出深いのは、「換金できる作物をつくろう」とアメリカや中国、日本などから持ってきたスイカの種を植えて育ち具合を経過観察したときのこと。日本のスイカは縞模様が消えて真っ黒になり、アメリカのスイカはなんと中身がスカスカ、最後には爆発して弾けてしまった。「市販の種だったが、遺伝子組み換えなどをした種だったのだろうか?」と思ったという。
杉山: 「偽物はアフガンでは生きていけないぞ」と、神の啓示を受けたような錯覚がありました。まるで寓話の中の出来事のような体験。現地では日ごろから、そんなホーリーなものとダークなものが勧善懲悪として明快に裁断されて、人智の及ばざる「啓示」が浮かび上がってきたように感じました。モーゼの「十戒」のエピソードのような、ダイナミックなものではないですが。
ほかに印象に残っているエピソードを尋ねると、「懺悔話に近いけど」と前置きした上で、ある少女について話してくれた。それは杉山さんが、ペシャワール会が運営する山奥にあるダラエヌール診療所で働いていたときの話である。
酸素ボンベが機能せず亡くなった女の子
杉山さんが診療所の受付や事務一般、また物品購入や管理などをしていたときのこと。ある日、急患で心臓の病気を持つ女の子が担ぎ込まれた。症状は深刻で、ここでは応急処置が手一杯、設備の整った病院のある大きな街に移る必要がある。しかし、搬送中に必要な酸素ボンベが途中で漏れていることに気付く。幸い予備があったのでなんとかその場は凌いで、後日ボンベは贔屓にしている薬局ですぐ修理した。それからさらに一カ月後、同じ女の子が重篤状態でやってきたのだ。
杉山: 酸素ボンベの準備は万全。のはずなのに、そのときになって2本とも機能しなくなったんです。修理に出して、あれだけ何度もチェックしたのに。
診療所では手動の酸素吸入で凌いだが、手術するため街の病院へ向かわせるよう手配したものの、搬送する途上で女の子は死んでしまった。自分の管理ミスを痛感したが、そのあと、どうにも怒りが収まらなくなり、修理させた薬局に飛び込んで「どういうことだ」と問い正したところ、たわし髭を蓄えた巨漢の店主は、「何のことだ?外国人が何か言ってやがる!」と不遜な顔をして冷酷に笑ったという。
「酸素ボンベの修理に、何度もお金を取っておきながら、何度も空気が漏れる。その責任も取らずに誤魔化すのか。ましてや女の子ひとりの命をなくしたんだぞ。なのになんだ、その態度は!」と、怒りで理性が吹っ飛び殴ろうとした。すると付き添いのドライバーに羽交い絞めにされ、「やつを殴ったらまずい」「街の薬をまとめる親玉だから今後売ってもらえなくなる」と言って諫められた。
杉山: あれは、自分の無力感も、同じアフガン人の女の子が死んだのに問題ないという店主の不遜な態度も含めて、世の不条理を痛感した出来事です。診療所には毎日いろんな患者がやって来ました。子供や老人など体力がない患者の多くが、マラリアや感染症などの罹患ケースでした。子供の患者などは、診療所に担ぎ込まれた時点で、冷たい遺体になっていることも多かった。現地では、「命の尊厳」という命題を突き付けられる出来事が毎日のようにありましたね。
アフガニスタン人と接する中では、人間のエゴも、自分が生き残るために仲間を裏切ることも、至るところでむき出しの本能にぶつかったという。その一方で、人懐っこい面や、誇り高く義理を重んじる側面も見た。とりわけイラン系民族のパシュトゥン人については、「敵に回せば地の果てまで追いかけてくるし、義兄弟の契りを交わせば命を賭けても助けてくれる」という。
川筋(かわすじ)もんとパシュトゥンヌワリ
杉山さんと中村医師は、同郷出身。福岡県下、遠賀川流域は戦前に炭鉱として栄えた。そこで働く炭鉱夫たちや石炭を船で運ぶ船頭、石炭を船に積む沖仲仕(おきなかし)など、石炭産業に関わる人々や地域を指す「川筋(かわすじ)もん」という言葉がある。短気で頑固、宵越しの金は持たない、そして義理人情には厚く、弱きを助け、強きをくじくイメージ。義侠心が強いとも言える。
アフガニスタン人の気質もまたパシュトゥンヌワリと呼ばれており、これは先のパシュトゥン人に掟を意味する『ヌワリ』をくっつけた言葉だ。つまり、「パシュトゥンの掟」。義理を重んじる、ここで引き下がったら男がすたる、『川筋もん』と『パシュトゥンヌワリ』に中村医師はそんな共通点を見ていたという。
杉山: あるとき中村先生が私に言うんですよ、「懐かしいだろ」と。主語は言わないけど、パシュトゥンヌワリと川筋もんのことを言っているのだと分かる。私が「はい、懐かしいです」と答えると、「そうやろうね」と満足そうな顔をしていた。実際に腹をくくってやっている中村先生が言うものだから、それがすごく様になるんです。この人は本物だ、出会えて良かった、そう思いましたね。
用水路の建設中、豪雨で土石流に襲われたことがあった。轟音を立てながら目の前を流れる巨石群、このまま放置すると下流にある村は危ないことは分かっているが、自然の脅威に誰もが恐怖で身がすくんで動けない。しかし中村医師は真っ先に飛び出して重機に乗り込み、水の流れを変えるため岩を動かしはじめた。
杉山: その姿を見て背中に電気が走ったように感じ、「この人を死なせちゃいけない」とみんなが続いた。中村先生のためなら命でもなんでも賭けると思える、そんなカリスマ性のある人。命を粗末にする訳じゃないけど、命よりも大事なものに気付かされました。しかし中村医師は無謀なことは決してしなかったですし、人にもさせませんでした。例を挙げれば、完成させたマルワリード用水路(マルワリード=「真珠」)は6~7年かかった大がかりな規模です。日本でいうところの黒部ダム級の、国家プロジェクトと言えるでしょう。一方の黒部ダムは200人近い殉職者が出たけど、こちらは3人。乱暴な言い方をすれば、犠牲者は出るものです。それが3人で済んだということは、あまり目立たない数字ですが実はすごいこと。ある意味、中村医師の医者としてのアイデンティティーを語る上で、無視できない事実です。
治安についても、噂やデマが飛び交う中で真偽を見極めるのは難しいが、中村医師が把握している情報は正確で速かったという。彼が常に大事にしていたことは「正確な情報」。本来それを現地の人から得ることは至難であるが、中村医師は現地人から信頼を得たからこそできたことだと杉山さんは語る。
水路の工事を進めていると、進路を塞ぐ岩盤に出くわす。岩盤を破壊する際、予算の都合から高価な削岩機は使えないので、かつて旧ソ連兵が埋めていった地雷を集めて信管を抜き、火薬だけ抜き取る。そして火薬を岩に仕掛けて爆破・粉砕するのだが、火薬を扱う人は元ゲリラ。かつては爆弾の爆破を得意とした男だ。
杉山さんが言うには、「人を殺しているやつは暗い」「武勇伝を語るやつは大したことない」という。そんな彼らも、工事の理屈は分からなくとも人を殺すために培った能力を平和利用していることは感じているようで、張り切ってやってくれたという。アフガニスタンの平和のために、今日明日もこれからも飢えないために、国籍も過去も関係なくともに取り組む。そんな現場だった。
「あえて言う、もう帰れ。」
そんな日々が変わるきっかけが、2008年に同僚の伊藤和也さんが拉致誘拐の末、殺された事件だった。
杉山: ちょうど祖父の初盆で帰省していたときにテレビのニュースで知りました。中村先生はすぐに現地から20代の若い日本人を撤収させ、ペシャワール会の事務局から「杉山はどうする」と聞かれ、「まずは現地に戻ります」と伝えました。ただ、そのときは隣国パキスタンで外国人排外運動が強まっていてビザも出ず、病院も閉鎖せざるを得ないところまで追い込まれ、私もアフガン側へ行くことが難しく、しばらくは中村先生一人で業務を回すことになった。本格的に活動が再開できたのは1年半後。それでも、基本的に護衛の兵士をつけている中で、水路脇にある試験農場へも週に1~2回行けたらまだ御の字という状況でした。
アフガニスタンでは、百姓も、日雇い労働者も、ゲリラにしたって明日になったらコロッと立場が変わる。水があれば鍬を持ち、水がなければ武器を持ち、そのとき生きるための最善手をとっている。身を守るには、「それぞれの人たちと信頼関係を築くしかない」と杉山さんは話す。
2011年3月のこと。さらに治安が悪化し、日本人誘拐の予告もあり具体性を帯びてきて、再びの撤収指示。長期のワーカーとして残った杉山さんだったが、最後に中村医師がかけた言葉は厳しいものだった。
杉山: 今後、治安が良くなることは望めず、ますます状況は悪くなる一方。「君はペシャワール会の活動を終了して帰国しなさい」と言われたときは、ショックでした。 残りますと中村先生に言ったら、気持ちはうれしいが、それは許可できないと言う。「また伊藤君のように日本人ワーカーが殺害されたら、ペシャワール会の活動を続けることが難しくなる。言い方は悪いけど君は足手まといだ、あえて言う、もう帰れ。」、そう言われました。でも、納得がいかなかった。私にもどんなことが起きるかわからない、いつ死ぬかわからないという状況でしたので、遺書を書いて現地に来ていましたから。今考えると、私はまだ若くて生意気で、あの時の中村医師の気持ちを汲む余裕がなかったんです。最後は、嫌な別れ方をしました。
杉山: 先生の言葉を借りれば、自分の道楽で若いのを死なせてしまった、わしの責任だと自分を責めていたように窺えます。あの事件以降、さらに無理に無理を重ねて体を酷使しているように見えました。中村医師を慰めたり、諫めたり、止める人がもう誰もいなかった。ですから、「帰れ」と言われたときに、「中村医師は畳の上で死ぬことはない、アフガンで死ぬ気だ」という覚悟を突きつけられた気がします。実際にそれが現実に起きてしまったことは、本当に残念です。
教師として。伝記にして。中村先生の教えを次世代につなぐ。
杉山: 帰国後は、魂が抜けたようでした。戦時の特攻隊帰りの人の気持ちがちょっと分かった気がします。この命をどうしたらいいんだ、これからどうしたらいいんだ、2~3年は苦しい時間が続きました。そんな中で、やっぱり私は外国人と接することが好きだったんでしょうね。日本語教師の養成講座を知って興味を持ち、地元の福岡の日本語学校で教師として働きはじめて、いまは4年目になります。自分のサイズに合う穴に、すっぽり収まったという気がしています。
教え子たちは、アジア圏出身が多い。インド、ネパール、ベトナム、中国、バングラデシュ、ブータン、パキスタンなど。いまはインターネットで中村医師の動画も見られるため、杉山さんが過去どんな現場でどんな活動をしていたのかについても知れるという。それまで将来の夢がなく、漠然と学校に来ていた留学生たちが、動画を見ると食い入るように見つめ、自分の将来のビジョンが具体的に変わるそうだ。
杉山: 卒業式で私が教え子たちにいつもしている話があります。「皆さんはどうして勉強するんですか」と尋ねると、みんな「日本で働くため」「お金をもらうため」と答えます。もちろん、人は幸せになる権利があります。学校で勉強して、会社に入ってたくさんお金をもらう。結婚して車や家を買って幸せになる。ぜひ、幸せになってください。しかし、あなたが幸せになったとき、勉強しますか?大半の学生は「しません」「必要がない」と言います。もし、あなたの国でお金がなくて困っている人がいたら、助けてやってください。あなたが出来ることでいいです。人の幸せのために、そのために勉強をしてください。
杉山: 中村医師はドクターだったのに、娘さんの数学の教科書を借りて独学で測量や土木作業を覚えました。それは困っている人がいるからやったんです。卒業していった留学生の中にこの話を憶えてくれて、将来自分たちが困っている人のために自分たちの学問や経験を活かしてくれたらとても嬉しいですね。中村医師の蒔いた種が、私を通して世界中に広まり、いろんな花を咲かせたら楽しいじゃないですか。きっとより良い世界を賢い次世代が作ってくれると信じたいです。
*
アフガニスタンにいた7年間のことは、いまも書き溜め続けているという。
杉山: 中村哲という人物を伝記に残す。それは間近で見続けてきた自分にしかできない使命だと思っています。決して、仏や神様のような人じゃない。極めて人間くさいところもひっくるめて中村先生。もちろん、私自身もまだまだ教師で人生終わるつもりはない。また外国に行きたいし、NGO活動もしたいです。天台宗の始祖である伝教大師・最澄の『一隅を照らす』という言葉を中村先生は好んでおられました。世界を救うことが出来なくても、目の前で困っている人と共に寄り添い、痛みを分かち合う。そんな言葉を私も実践して、後世に伝えたいです。
コメントを残す