青年海外協力隊での心残りが地域おこしの動機と原動力に|ガボン|西山仁

新潟県十日町市の市役所職員として働く西山さん。中学の頃からの夢だったという公務員、しかし大学を卒業して渡った先は中央アフリカの国・ガボン。回り道をしての公務員としての就職には、どんな背景があったのか。発展途上国での国際ボランティア活動が、再びその進路を選ぶ中でどう影響を与えたのか聞く。

西山さんインタビュー画面
プロフィール西山仁(にしやま ひさし)。1986年生まれ、千葉県出身。栃木県の大学卒業後、平成22年度(2010年)2次隊村落開発普及員として、青年海外協力隊に参加。派遣国のガボン共和国で、零細漁民の所得と生活水準の向上を目的とした活動を行う。2年2か月の活動後、帰国。2013年秋より、新潟県十日町市の地域おこし協力隊として移住し、任期後は十日町市役所に入職し定住した。

十日町市で地域おこし協力隊→市役所職員に

西山新潟県の十日町市市役所に勤めています。いまはクロステンという道の駅に出向していて、地元の特産品を、県内や首都圏の飲食店などで取り扱ってもらうための営業を行う部署の、その営業管理と事務的な役割です。

水嶋: 道の駅ってサービスエリア的なイメージだったんですが、特産品を首都圏にも営業って、店を構えて待つばかりでなく攻めたこともしているんですね。

西山: 全国的にも珍しいと思います。十日町市の主な特産品は米(魚沼産コシヒカリ)なんですが、ほかにも豚肉や郷土料理の惣菜など、地元の生産者さんは少人数で回しているところも多いので、その営業代行みたいな形でやっています。

水嶋: 市役所に勤めてどれくらい経ちますか?

西山: 5年目です、いまの部署は2年目。市役所に入る前は、地域おこし協力隊として2年半活動していました。

水嶋: 地域おこし協力隊!あとで詳しく聞きますが、海外経験者ってそちらに行くというか、地元だったり、地方だったり、ローカルに振れる人が多いですね。その2年半では何を?

西山集落に入って、コミュニティ機能の維持や農産物の販路拡大に関わっていました。たとえば、祭りなどの伝統行事に関わったり、地域の情報誌をつくったり。ちょうど地元産の野菜を給食に出すという取り組みを、地域の人で集まって取り組んでいたので、その調整も。最後の方は、集落の歴史やマキ(血縁関係のある集団)の変遷を調べて冊子にまとめるといったこともしましたね。

水嶋: 地域おこし協力隊、イメージですが、そんな活動が多そうですね。

西山: 僕がいた地域だと5~6くらいの集落が集まっていて、地元の小学校がずっとほかの集落の人が一堂に集まるような場所だったのですが、中越地震前くらいに閉校してほかの集落の情報が入らなくなったんですね。それこそ、「どこどこの家に嫁が来た」とか「あそこの集落に子どもが生まれた」といったことも伝わらなくなっていて。その課題解決として前任者が地域情報誌を発行していたのですが、その方は60代の方で、情報が割と上の世代、僕らの親・祖父母のような世代から提供されたものが多かったので、また違った僕と同じ若い世代に対してアプローチしていきました。

水嶋: 最後に郷土史を調べてまとめた、というのは?

西山: 集落同士、また集落内でも以前より関係が薄くなってしまったのか、苗字が違っても実は遠い親戚だとか、そういったことがが、とくに僕らの世代から分からなくなっている。そうした話を上の世代から聞き取りしたり、戦前戦後の家の配置を比べたりして、郷土史として最後にまとめた形です。そういうのって、地元の人だと親には聞きづらいけど、逆に外から来た人間の方が聞きやすい。地域の若い仲間に「西山の方がよっぽど知ってるんじゃないか」とも言われましたね。

水嶋: 分かります、自分のルーツに興味がない人間はいないと思います。そこで気になるところですが、それまでは海外にいらしたんですよね。

西山: はい。2年、中央アフリカに位置するガボンでJICA海外協力隊として活動していました。

十日町市での地域おこし協力隊時代(右端が西山さん)

現在の新潟での活躍を聞けば聞くほど、その前にアフリカ・ガボンにいたということが気になる。それは大学での人の出会いと、リーマンショックという就職難が関係していた。

JICA関係者との出会い、就職難がきっかけにガボンへ。

西山: 父が自営業で土日もない生活であまり家におらず、「土日休みってすごくいいな」という動機で中学の頃から公務員になりたいと漠然と思うようになりました。大学ではつぶしが利くと思って経営学部に、でも明確な将来像はなかったです。ただ、入ったゼミがすごく自由で、主な活動はまちづくりなんですが、卒論を書かなくてもいいし、何をしてもいいところだったんです。

水嶋: それは自由な!

西山: 教授は青年海外協力隊の技術顧問をしていたこともあって、そのつながりがあり、帰国した青年海外協力隊の人が挨拶に立ち寄りやすい環境でした。それでよく教授から「おもしろいやつ(青年海外協力隊のOB/OG)が来るからいっしょに飲まないか」と誘ってもらい彼らの話を聞く中で、それまで協力隊って学力とか語学とかハイレベルで意識の高い人が行くものと思っていたんですが、失敗談も多くて、身近な存在に感じていたというのはあります。

水嶋: ただ、それがきっかけ、という訳ではなかった。

西山: そういう人生もあるんだな、くらい。新卒というアドバンテージを捨ててまで行くつもりはなかったですね。それまで海外に行ったこともなかったですし(笑)。ただ当時はリーマンショックの翌年で、地元の公務員試験に国公立や有名私立大学の学生が来るような状況でした。

水嶋: おぉ…それはきつい…。

西山: それで採用試験にことごとく落ちて、就職浪人を覚悟しはじめた大学4年生の秋、心のどこかで引っ掛かっていたJICA海外協力隊の秋募集のチラシを電車のつり革広告で見て、誰にも相談せずに受けたら、唯一受かった。それで「発展途上国で現地の人と何かするってよほどないことだ」と思って行くことにしたんです。

水嶋: 誰にも相談せずにってことですが、ご両親は何と?

西山: 父は「俺も行きてぇな」って言ってましたね。昔、父は、学生運動や高度経済成長期を経験して、祖父は戦争経験者。20代をエネルギッシュに生きてきた話を聞いて、そこで自分が親と同じ年になって自分の子どもとかに話せる経験談が「勉強頑張った」「サークル頑張った」というのはおもしろくないと漠然と思っていたのはあります。一方で母からは、「行ってもいいけど応援はできない」と言われましたね。

水嶋: ご両親の反応が真逆なんですね。

西山: 母は、安全面を気にしていたというのはありますが、僕は大学入試で一年浪人していたので、同級生が就職している中で就職しないことに対する不安があったんだと思います。なので、国の任務で行くので安全面でも優先的に守られるし、活動中は積立金があるし、身分保障がすごいよとそこは強めに話しました。男だから行かせてくれたというのはあると思いますね。

水嶋: 任地のガボンは希望していたところだったんですか?

西山: いや、合格通知書をもらってはじめて知ったくらい。ウィキペディアで調べても当時は3~4行しか情報がなくて、アフリカ中央西部で首都はどこそこ、面積と人口くらいしか書いていない。かろうじて先輩隊員のブログで情報があるくらいでしたね。

大学時代(後列右端が西山さん)

「アフリカならどこでもいい」と面接で伝え、ガボンに決まった西山さん。新卒就職というレールから外れる不安がありながらも、国際ボランティアに対する期待も胸に渡航。しかし、到着早々予想外の事態に遭った。

「習慣」は長年繰り返して生まれた結果

西山: 任務はもともとガボン政府からの要望で、マイクロクレジット(少額融資)を活用して漁民の生活水準と所得を上げるという国家プロジェクトでした。それを前任者から引き継ぐ予定だったんですが、直前で大統領が変わったことで各省庁が再編されて、僕が到着する頃には予定されていた予算がなくなってしまっていたんです。

水嶋: うおー、そんなパターンあるんだ…。でも、そうなると…どうなるんです?

西山: ちょうどガボンの水産庁にJICAの専門家が入っていたんですが、その方に可愛がってもらっていて、「定置網つくってみれば?」と言われたんです。自分がいる集落は500人くらい住むラグーン(潟湖)に面した内水面漁業の盛んな漁村で、獲れた魚を仲買人が指定の日に買いに来るんですが、その日に合わせて漁をするのではなく、ほぼ毎日漁に出ていたので、仲買人の来る日までに獲れたものは腐らせないように燻製にするんですね。だけど、鮮魚より値段はガクッと下がる。稚魚も余すことなくそうするので、水産資源の管理という点でも次の世代に残していかないといけないよねとなって、定置網を引き上げて獲れた魚を生け簀に移して再度定置網を仕掛ける、というイメージを目指して取り組みました。

水嶋: 成果はどうでした?

西山それで現地の人の暮らしが良く変わったかというと、そうでもなかった。というより、そもそもガボンは食べ物には困らない環境で、赤道直下でもサバンナというより熱帯雨林で、森に入ればタロイモやキャッサバ、バナナが実ってるし、野生動物(ジビエ)も獲れる。僕の任地でお金を使うのは、酒、たばこ、コーラといった趣向品や、洗剤や携帯のプリペイドカードなどの生活用品ばかりで、銀行もなく、貯金をしている感じもありませんでした。

水嶋: なるほど…。

西山いま思えば、鮮魚=すごくいい、高く売れるなら手間をかけて良いものを作る、というのは日本人的な考え方だったのかなと思います。魚を売っている市場には冷蔵ケースなんかなかったし、冷蔵庫がない家も結構な割合であったので、鮮魚そのものがその土地の食文化に適っているとも限らない。それに燻製で2~3カ月持つなら、それはそれで長期保存ができるので、高く売れなくても価値はトントンかもしれない。

水嶋: それめちゃくちゃおもしろい話ですね。日本人の考える「正しいこと」が、その土地の人達にとっても同じかどうかは分からない、と…。

西山: なので、活動の後半は自分のやることが、善意の押し付けにならないように考えて動いていました。漁にしろ食文化にしろ、それは何十年何百年と試行錯誤を繰り返して一番効率の良い形になっていたと思うんですよ。外から新しいものをボンと入れることは、生活水準の向上や改善になるというけど、いままでの文化を変える影響力もなくはないし、それが常に良いものとは限らない。

水嶋: そういう話、協力隊OBOGの方と話してると多くの方と似た話題になりますね。与えられた任務は、そもそもその土地の人達にとって本当に良いことなのか?どこかで葛藤するって。それも含めて意義があるんだろうなと勝手ながら想像していますが。

西山: そうですね。多くの協力隊が共通してぶつかる壁だと思います。結局、お互いの文化の違いの話だとは思いますけどね。ただ、僕もずぼらだったので、現地の人から漁以外でも「前のやり方がラクだ」と言われたらそれで終わらせたりとかしてました。ちなみに定置網は現地の職員で「やってみたい」という人がいたので、彼に引き継いでから任務を終えました。

ガボンの任地にて定置網をつくる西山さん

人生で最も心の浮き沈みが激しい2年間だった

水嶋: 個人的には、西山さんのスタイルでいいなと私は思います。ずぼらということもなく。でも、現地の暮らしが変わらなかったと言っても、西山さんにとって得るものはあったんだろうなと、話を聞いていて感じる。

西山: 帰国してからより思ったんですが、この青年海外協力隊という制度は絶対に行った方がいいと思ってるんですよ。現地に行って、何もできないこともあるし、何かできた達成感もあるかもしれない。それも含めて、あれほど心の浮き沈みが激しかった2年間はなかった。酒におぼれることもあれば、日本語が恋しくて水曜どうでしょう(テレビ番組)を一日中見ることもあった。それを経て、よっぽどのことがなければ動じなくなり、自分を客観的に見れるようになったなと思います。日記とか書いてたら、きっと闇深い内容になってたと思うけど(笑)。

水嶋: 行った場所がそこだからよかった、というのもあります?

西山: ありましたね。何より一番よかったのは現地の集落の人達。日本人だけでなくアジア人が僕一人だけだったんですが、前任者がいたお陰で日本のボランティアだと認識してくれたし、現地の人がすごく親切でよかった。地域おこし協力隊で入った地域や市役所の担当職員もそうだし、大学での教授や協力隊OBOGの方との出会いも、いい人に恵まれてるなと感じます。

水嶋: 結局、周りの人がすべてですよね。

西山: 青年海外協力隊の仲間とはいまでも一年に数回会うんですが、そこでできた人とのネットワークは大きな財産です。派遣前の研修では境遇も近くて仲良くなるのもすぐだったし、バカみたいなノリで楽しく2カ月間の訓練生活を過ごせたけど、実はみんな熱い思いを持っている。派遣から10年経ったいまでも、会えば、熱い話も、バカみたいな話もできる。当時はシニア隊員も同じ訓練所で語学を学んでいたので、大企業の元役員の方に「おじさん、ちゃんと外国語勉強しなきゃだめだよ」と冗談交じりで話せたり、こうして記事には残せられないようなバカ騒ぎもした。あの経験は特殊で、それまで自分は内向きであまり目立たないタイプだったけど、ガラッと変わったように思います。

ガボンの子どもたちと

そんな一生の糧とも言える経験を経た西山さん。そのあと帰国して、目指したものは以前と同じ公務員だった。大きな転機にもなり得る経験を経たものの、変わらぬ結論。そこにはどんな思いがあったのか。

ガボンでやり切れなかったことを日本で

西山: 12月に帰国してからは翌年度の公務員勉強の勉強をしていたんですが、時期の早い県庁や東京の特別区は二次試験以降進めなくて、焦っていました。そんなときにフィリピンに行っていた同期隊員が浜松市の地域おこし協力隊をしていると聞き、そのときはじめて制度を知ったんです。やっていることはコミュニティに関わるという点でガボンでの活動とも似ていて、心のどこかに不完全燃焼感があったので、自分もやってみようと思いました。

水嶋: あーー、なるほど。割り切ったところはあったとはいえ、ガボンでやり切れなかった思いが、帰国後の地域おこし協力隊につながってくるんですね。

西山: そうです。それでたまたま十日町市の募集を知りました。母の出身地なので郷土料理や方言とか文化も知ってるし、母方の実家の墓参りにも行ける。その意味では、JICAよりも条件を絞った感じはありましたね。

水嶋: 野暮なことを聞きますけど、もともと公務員志望だったとはいえ、ガボンで言わば人生観が変わるような経験をした訳じゃないですか。それで帰ってきて、なおも公務員になろうと思った理由は何ですか?

西山: やっぱり安定ですね。ガボンでも公務員がいれば一族安泰みたいな話がありましたけど、冒険的な生き方はJICAで終わりかなと思っていたこともあります。それに最近は日本にも外国人が増えているので、海外経験者ができることがあるのではと思った。ガボンはフランス語圏で、僕の語学力が在外勤務に通用するほど伸びれば、以降も海外で働く選択肢もあったけど、そこは期待できるほど上達しなかったので。

水嶋: なるほど。その、日本で外国人が増えているから、という文脈はすごくよく分かります。海外経験があれば、それは確かに引き続き海外での次のステップにつながると思いますけど、いま日本においてもその経験の価値は高まっているはずなんですよね。

西山: そこには任務内容や任地に左右されるところもあったかなと。土地や任務柄、魚の名前はたくさん覚えたけど、レストランもない田舎町だから食べるものも屋台飯で、フランス語圏だけどナイフとフォークといった簡単な単語を使う機会がなかった。そこはたとえば、看護師だったら現地の医学用語を覚えられるとか、直接的に生かせる経験はあると思います。

西山さんはガボン生活を振り返り、「心身ともにいろんな負荷がかかった分、人間として成長できた時間でした」と話す。同じ公務員に続く道でも、回り道をした方ができることは増えるはず。本人も話すよう、日本に暮らす外国人の方が増えている。そんな多文化社会に進む日本の中で、大事な役割を担ってくれるに違いない。


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2020-08-20|タグ: ,
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